第9回「命の値段」
安政3年(1856)
2年4ヶ月ぶりに龍馬は千葉道場へ戻ってきた。
佐那はこの2年4ヶ月の間、龍馬の事を想い、お茶、踊り、料理を習って待っていたのに、素直になれずにいました。
兄の重太郎が見かねて、二人きりになれるようティングをし、佐那は自分の気持ちを龍馬に伝えました。
でも、龍馬は土佐で待っている加尾のことが好きで、佐那の気持ちに応えることはできず、逃げ出してしまいます。
その頃武市は、江戸で一番に規律の厳しいといわれている桃井道場の塾頭になっていて、龍馬と江戸で再会し攘夷派の会合に龍馬を誘います。
その水戸藩・薩摩藩・長州藩の攘夷派との会合で、龍馬は桂小五郎と再会します。
各藩は攘夷が藩の中で浸透していることを報告し、武市は土佐の状況を聞かれ、濁すしかありませんでした。
帰り道、武市は土佐の攘夷は後れをとっていることと身分階級を悔やみ、龍馬に仲間になってくれと頼みますが「喧嘩は嫌いだ」と断る龍馬。
龍馬の喧嘩嫌いは龍馬が一生貫いた心でした。
喧嘩をしないで、平和に解決したいという想いは、この先龍馬が成し遂げる偉業の元になっているのでしょう。
その頃幕府は、帝の「朕は、異人は、嫌いである」そいう意思を無視しアメリカとの交易を始める条約を結んでしまいます。
この帝の言葉は今後の攘夷派の支えとなって行く重要な発言で、帝と攘夷のために、あまりにも多くの命が失われて行くのです。
そして、武市の元には「山本琢磨が盗品を質入れした。処罰は任せる」と土佐藩上士より伝えられます。
事は事実で、武市は琢磨に切腹を命じます。
見かねた以蔵は龍馬に助けを求めに行き、龍馬は武市に切腹する程の事なのかと話をしに行きますが、これを許すことは攘夷の妨げになると聞き入れませんでした。
納得のいかない龍馬は、盗品の時計の持ち主を説得し訴えを取り下げてもらい、再度武市を説得しても無理でした。
龍馬は、夜中にこっそり琢磨を連れ出し、用意していた船に乗せ、琢磨にお金を握らせ逃がします。
「こっから先はおまんの自由じゃからな。山本琢磨という人間がこの世に生まれて、簡単に命を捨てるがわもったいないぜよ。」
「琢磨!おまんはもう土佐には戻れん。けんど、きっと何処かに、おまんの生きる場所があるき」
「自分の罪を忘れてはいかんぜよ。けんどのう卑屈になってもいかん。堂々と、堂々と生きや。」
翌朝、琢磨の逃亡により武市は土佐に帰る事に。
龍馬は、父の死・母の死で命の尊さを知っていて、命を全うすることの大切さを父から学んでいました。
この時代の責任の取り方は命と交換することでしたが、龍馬はそれを理解できない、当時としては変わった、でも今では当たり前の考えの持ち主だったのではないでしょうか。